長崎刺繍の歴史

■長崎刺繍の歴史についてご紹介致します。

  江戸時代、鎖国の中にあって、長崎は日本で唯一海外に開かれた場所でした。
  江戸、寛永時代(1624〜)以降、唐船の来航が目に見えて増加し、その唐船で長崎に来た唐の人達がそのまま長崎に居住し、「住宅唐人」とよばれるようになりました。この住宅唐人達によって長崎刺繍は伝えられました。 しかも、その人達の殆んどが福建省を中心とした出身者だったため、長崎刺繍は中国福建方面の刺繍の技が中心だと考えられています。また、一般に中国刺繍は宋時代の都ベン(現在の開封)で整備され、南宋時代にはその都姑蘇(現在の蘇州)を中心とした地区で発達しているため、福建方面の刺繍はこの間に開封方面より伝承されたと考えられています。
  長崎に唐人屋敷ができたのは元禄2年(1689)です。それ以後は唐人の外出が認められなくなり刺繍を長崎の人に伝える機会が少なくなったため、元禄2年以前貞享の頃(1684〜87年頃)に長崎刺繍が伝承されたと考えられています。
  明治26年、安中半三郎が長崎酒屋町虎興号から出版した『長崎地名考−物産部』には、
「当時は専ら婦女の工業なりしが其後、在勤奉行より江府(江戸)進献の事ありしに、後には年々調進の事となり本邑の職工命をうけて仕立しなり。夫より此職に就くもの多くなれり。」
とあることから、長崎刺繍が幕府への献上品となり栄えていったことがわかります。
  幕末から明治時代初期にかけては、外国人向けの軍艦・花鳥などの図案で売り出されましたが次第に衰退し、大正時代末期から昭和初期にかけては図案の輪郭にわずかに金糸を使用して長崎刺繍の名残を止めた製品が生み出されたりもしましたが、やがて全くその姿を消してしまいました。
  現存する長崎刺繍としては「くんち」に関したものが多く、現在、一番古いものとされているのは、安永元年(1772)に制作された桶屋町の傘鉾の垂れに刺繍してある「十二支」です。この刺繍は長崎市の重要文化財に指定されています。

長崎刺繍(傘鉾垂れ)制作年表
西暦 和暦 制作された長崎刺繍(傘鉾垂れ) 社会の主な出来事
1772 安永元 桶屋町傘鉾垂れ「十二支」 1770 平賀源内、長崎に遊学
1789〜1800 寛政年間 諏訪町傘鉾垂れ「諏訪伝説 白狐」 1793 くんちを7・9日から9・11日に改
1804〜1818 文化年間 本籠町傘鉾垂れ「龍の幕」 1808 フェートン号事件
1827 文政10 万屋町傘鉾垂れ「魚尽し」
下絵 原南嶺斎/繍師 縫屋幸助
1828 シーボルト事件
1848 嘉永元 万屋町傘鉾垂れ「魚尽し」新調
繍師 塩谷熊吉
1853 ペリー浦賀来航
1862 文久2 西浜町傘鉾垂れ「姑蘇十八景の図」
下絵 荒木千州/繍師 米原吉造・
三浦彌吉・志築弥三郎
1862 上野彦馬、上野撮影局を開業
2004 平成16 小川町傘鉾垂れ
繍師 嘉勢照太
2005 長崎歴史文化博物館開館

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